人生の意味について―フランクル『夜と霧』から
フランクル『夜と霧』霜山徳爾訳を読みました。
10年以上前、高校入学か大学入学時に母からもらったものです。
なんだか気になりつつも放置していましたが、ふと思い立って読むことにしました。
霜山訳には解説があり、各収容所でどのようなことが行われていたのかが詳しく書かれています。人はこのように残酷になれるのだなと怖くなります。
その中に人生の意味について書かれた部分があります。
1944年のクリスマスから1945年の新年の間に、収容所ではかつてないほど大量の死亡者が出ました。その理由は囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという素朴な希望に身を委ねたせいであり、その失望が人々を打ち負かしたことを示しています。
このように拠り所を失った人々の典型的な言葉は「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」というものです。
人はこれに対してどう答えるべきか?
フランクルは答えます。
ここ必要なのは生命の意味についての問いの観点の変更なのである。
すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。
・・・
人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。
人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。
フランクルはナチスにより妻と二人の子を殺され、収容所で唯一心の拠り所にしていたものはもはや存在しないという体験をしました。
収容所におけるすべての人間は、われわれが悩んだことを償ってくれるいかなる幸福も地上にはないことを知っていたし、またお互いに言い合ったものだった。われわれは「幸福」を問題とはしないのである。われわれを支えてくれるもの、われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。
いわゆる幸福が支えになるよりも、この体験は使命的性格を持ち、心理学者としての刺激となる、とフランクルは書いています。
私がもし妻や子どもを失うとしたら、人生に対して何も期待できないという気持ちに間違いなくなるでしょう。その時に人生は私に何を期待しているか、考えてみることにしたいです。これはそのためのメモでもあります。
東日本大震災後にこの本を読む人が増えたと何かの記事で読みました。
生きて、このような本を書いた人がいたという事実に感動します。